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第40回 zen café 坐禅会(オンライン配信)




皆さまのご参加をお待ちしております!


【オンライン坐禅会(第40回定例坐禅会) & オンライン茶話会】←坐禅会と茶話会の同日開催です☆

2/7(日)20:00〜21:30@インスタグラムとYouTubeのライブ配信にて。

▼zen caféのインスタグラム

https://www.instagram.com/zencafe_shinshu

▼シンゲンさんのYouTubeチャンネル





2021年2月7日 オンライン配信 定例坐禅会 担当:zen café 茶頭 Tokushin



第40回 zen café 喫茶夜咄


 「天才と神童は何処へ?」




1、かつて天才だった俺たちへ



苦手だとか 怖いとか 気づかなければ

俺だってボールと友達になれた

頭が悪いとか 思わなけりゃ

きっとフェルマーの定理すら解けた

すれ違ったマサヤに笑われなけりゃ

ずっとコマつきのチャリをこいでた

力が弱いとか 鈍臭いとか 知らなきゃ

俺が地球を守ってた


~Creepy Nuts【かつて天才だった俺たちへ】より~


 

 皆様変わらずお元気でお過ごしですか?「去年の反動で今年は大雪が降るぞぉ!」とか、「今年は10年に1度の大寒波が~」なんて、お話にビクビクしながらも、どうやらほどほどに2月に突入しまして、少し雪予報への油断が生まれてきております、脇の甘いTokushin和尚でございます😄笑


 そうそう。最近つとにスマホのご機嫌が悪くてですね。特にメール(LINEではありません 笑)を使っていると、画面が固まり、ブラックアウトすることが多いんです。これは大寒波のせいなのか?それとも4年同じ機種を使っているからなのか?この様子ではスマホ柱への道は遠いですね 笑


 というわけで、節目の第40回 zen café 定例坐禅会は、鬼退治の月に、鬼滅の刃リスペクトで参ります!笑



「全集中!」     なんやったら zen 集中!笑


「zen caféの呼吸!」 インスタライブ、youtubeにて呼吸を整えて頂きました!


「四十の型!」    丸三年と四ヶ月経ちました!😃  


「感謝ただ感謝!」  まさかここまで続くとは!皆様本当にありがとうございますっ!



 さて、ここに挙げましたのは、2020年8月26日リリース、Creepy Nutsさんの「かつて天才だった俺たちへ」という曲の一節です。Creepy Nutsさんは、ラップを担当するMCのR-指定(アールしてい)さんと、DJ松永さんの二人組のヒップホップユニットです。年齢は30歳と31歳で、メジャーデビューは2017年です。R-指定さんは日本最高峰のMCバトル「UMB GRAND CHAMPIONSHIP」にて2012~2014年に3連覇を達成し、DJ松永さんは「DMC WORLD DJCHAMPIONSHIPS 2019」にて優勝した経歴を持っているため、ドキュメンタリー番組「情熱大陸」の密着では「日本一のMCと世界一のDJが組んだ最強HIPHOPユニット」として紹介されています。本曲は帝京平成大学のタイアップソングとして書き下ろされたものです。


 ここで出てきました「俺だってボールと友達になれた」というのは、漫画「キャプテン翼」の名セリフ「ボールは友達だよ」を受けての歌詞です。「フェルマーの定理」は、約300年間その仮説の証明が為されず、かつて数学界最大の難問と言われた証明問題で、「コマつきのチャリ」は関西の表現で「補助輪付きの自転車」のことです。そしてアニメ「ドラゴンボール」を想像させるような「俺が地球を守ってた」のフレーズが続きます。これらの歌詞は一見すると、言い訳がましい過去の振り返り、いわゆる「中二病」の歌詞にも見えるのですが 笑 作詞されたR-指定さんの言いたいことはそうではないんです。下に貼ったURLは、Creepy Nutsさんが今回の楽曲に込めた思いと視聴者の方へのメッセージ動画です。


https://youtu.be/5ih8hl4seac


 誰しもが小さかった頃、もっと言えば生まれたばかりの頃には、「できない」ということを知らなかった。つまり「できない」という決めつけが無かったわけですが、「できないという決めつけが無い」ということは、「全てのことができるかもしれない状態」ってことでもあります。よく耳にするのは「若い頃は無限の可能性がある」って言葉ですが、それをR-指定さんは、曲名にもある通り「かつて天才だった俺たち」と表現しているわけです。私たちの幼少期を「なんの経験も能力も知識も無かった頃」とネガティブに捉えるのではなく、「できないという決めつけが無くて、全てのことができる可能性があった頃」とポジティブに捉えているのです。そして、我々が成長していくに従って増えていってしまった、いくつもの「できないってことへの気づき」や「恥ずかしいってことへの気づき」などが無ければ、あのままの「天才」のままの自分で行けたんだろうか?どうなんだろうか?はじめは無限大にあった可能性の選択肢。それをどんどん削除していったのは自分自身だよね?そんな問いかけのメッセージなんです。きっと誰しもに共感する部分がありますよね。そういえば、オトナになっても少年の心を忘れていないような方にお会いしたとき、目をキラキラ輝かせて熱っぽくしゃべるその方を見て、少しうらやましく感じる自分が居たりします。かつて天才だった俺たち。そうです。あなたもあなたもあなたもわたしも、かつて天才だったんです😃





2、「自己を忘れよ」



 仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。

(『正法眼蔵』「現成公案」)


【訳】仏の道を習うというのは、自分を習うことである。自分を習うということは、自分を忘れることである。


 仏の道を学ぶということは、難しい経典を勉強することではない。自分自身を知ることである。日常の自分自身をよく観察してみると、まことに吾我(ごが)の心をもった自己中心的な言動をしている私であることが分かる。この自己中心的な私を忘れる(離れる)ことから仏の道は始まる。


~2009年2月『大法輪』掲載、角田泰隆著【道元の名言】より~

 


 『大法輪』に掲載されました、駒澤大学教授角田泰隆先生執筆の【道元の名言】より、一節を紹介致します。道元禅師の著された『正法眼蔵』の「現成公案」の巻に記される言葉です。この通り、原文だけを見ますと、わかったような、わかんないような言葉でして。笑 欧米を中心に正法眼蔵が哲学書としても珍重されていることを肌で実感するような言葉ですが、ここには道元研究の専門家である角田先生の解説が載せられており、とてもわかりやすくなっております。ひとことで言うならば「自分を見つめ直し、自己中心的な考えから離れることで、初めて仏道の学びが始まる。まずは固定概念をとっぱらいなさい」と解釈できましょうか。赤ちゃんの頃は真っ白で何も意図がなかったものが、年を取るにつれ、様々な理由・環境・自我などによってだんだん自己中心的になってしまう。そこから離れることが、仏道を学ぶ第一歩だ。道元禅師はそう考えられたのだと思います。「習うためには忘れなさい」とか「学びたければまず自我を捨てなさい」という、一見相反する言葉が、実はこうした意味の元に一本道でつながっているわけなんです。


 また、スタジオジブリでプロデューサーを務めていらっしゃいます鈴木敏夫さんは、とあるインタビューで、「枝葉末節」と言う言葉があるけれど、ここへ来て現代人がこだわっているのは「枝葉っぱ」どころか「葉脈」だけを見て、その根幹になっている「木」を見ていないし、もちろん「森」も見ていない。「木を見て森を見ず」どころじゃない。大事な大元の根幹がなんなのかが見えていない。ただ、さすがに「葉脈」の先は無いんじゃないかと期待している。みんな「葉脈」のことだけで右往左往する生活に疲れて、揺り戻しが来て、みんなが「森」を見れる生きやすい時代が来るんじゃないかと期待している。といった主旨の発言をされていたのを思い出しました。鈴木さんの言う「枝葉っぱどころか葉脈」とは、道元禅師がおっしゃられた「自己中心的な言動に囚われている自分」に、鈴木さんの「森」は、ここで道元禅師の説く「仏道」にそれぞれ捉え方が似ているなぁと思いました。Creepy Nutsさんで言うと「森」は「かつて天才だった俺たち」でしょうか😃





3、神童だった貴方へ


かつて天才だった俺たちへ

神童だった貴方へ

まだ見ぬ明日へ羽ばたけ行くぜ12345

いまだかつて

ないほど入り組んだway

悩めるだけ悩め

時が来たらかませ

風まかせ

どっちみちいばらのway

俺らは大器晩成

時が来たらかませ


~Creepy Nuts【かつて天才だった俺たちへ】より~

 


 最後もCreepy Nutsさんの「かつて天才だった俺たちへ」という曲の一節です。Tokushin和尚が見つけたCreepy Nutsさんのファンの方の書き込みがあるのですが、そこには、「最後のリリックが、『今すぐ動け!』じゃなくて、『時が来たらかませ』というのがとても優しくて、勇気をもらいました。僕も力をためて、時が来たらやってやろうと思います!がんばります!ありがとうございました!」といった書き込みがありました。なるほど、そういう感じ方をする方もいらっしゃるんだなぁと勉強になりました。皆様はこの歌詞からどんな気持ちになりましたでしょうか?歌詞は「詩」ですので、読み手や聞き手が感じたことや、受け取ったメッセージが各々様々なのが当然ですし、それが「詩」の素敵なところですよね。


 R-指定さんがインタビューで答えていらっしゃるとおり、この歌は、「自分の信じた道を進む。というメッセージソングにして欲しい」という大学側からの依頼を受け、大学生と言えば「進路」という発想から作詞が始まり、最終的には「もともとみんな天才だった」というところから、純粋だったあの頃のように、しがらみに惑わされず、選択肢をつぶさず、今に集中して、進め!という歌になったのだろうと感じます。ただこれが、禅的な発想と少なからずリンクすることが個人的におもしろく感じ紹介させて頂きました。確かにコロナのせいで「いまだかつてないほど入り組んだway」に今私たちは居るのかもしれませんし、その一方で、コロナが無くったって、人生っていろいろ起きるものですから「どっちみちいばらのway」と感じていたのかもしれません。でも結局大事なのは「日常の自己中心的な自分から離れること」だったり、「今ここに集中して余計な思いに囚われないこと」だったりで、それはいつでも変わらないんですよね😄


 かつて天才だった俺たちへ。神童だった貴方へ。そしてTokushin和尚は自分自身へ。



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文責:Tokushin


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